プロジェクト Ｔ‐Ｔｉｍｅ ＶＯＬ３
上演台本
独り芝居
ウノノサララ
作 杉 内 浩 幸
参考文献 天上の虹 里中満智子 講談社
壬申の乱 遠山美都男 中公新書
女帝と譲位の古代史 水谷千秋 文春新書
猿丸と道鏡 柿花 仄 東京経済
現代
独り暮らしの女性の部屋。３０歳ぐらいか。
奥に簾あるいは暖簾。部屋には十個程度の携帯電話。タイプや色の違うものが適当に並ぶ。
女は鏡の前で長い髪に櫛を入れる。（鏡はなくてもよく、正面を向くなどする）
一台の携帯から電話が入る。物憂そうに取って。
武田さん？ え、今から？ ええ、はい、ああ、でも、ちょっと、しかし・・・は、はい・・・じゃあ、二時間後に・・・
電話切って。
ちょっと、急に「あなたのオムライス」が食べたいだなんて言わないでよね。ええと、レシピレシピ・・・ない、ない、そんなものない！ どうしよう・・・そうだ！
一つの携帯を取って。
もしもし、ママ？ ねえ、オムライスって、ご飯に玉子焼きかければOKよね。え、玉子焼きじゃない？ 出し巻き、何それ、カツオ？ コンブ？ 玉子いらないの？出し巻きは玉子料理だって？ そんなわけないじゃない、ダシなんか巻けるわけないじゃない、ママ大丈夫？ ご飯に砂糖入れた玉子焼きのっけて食うのかって？ それはちょっとまずいよね。それくらいあたしにもわかる・・・わかった、わかった・・・いいから、とにかく、始めから教えて。エビ？ そんなもの入れんの？ ああ、オムライスが得意だなんて言わなきゃよかった、ん？ それはお好みで？ わかったからさあ、一番オーソドックスなオムライスでいいから、ねえ、もう時間ないんだからあ、ねえ、ママ、こっち来てよ、もう・・・無理か、新幹線で二時間はかかる・・・あり得ない。ん・・・・・ママ、ちょっと待って、ちょっと待って、オムライスって、おそば屋さんじゃ作ってないわよね？ じゃあ、何屋さん？ 洋食屋？ そんなのこの田舎じゃないわよお・・・え？ 中華料理屋さんならあるかもしれないって・・・さすがママね、でも、ばれないかな・・・皿に、盛り付けなおす、店の皿を確実に隠す、ふむふむ、そんなこといいわよ、少し、崩して、ふむふむ、「失敗しちゃった、ごめーん」とかって・・・ふむふむ・・・ちょと、何でそこまでママに指導受けなきゃなんないわけ、わかった、もうわかった、ありがとう、やってみるわ・・・え？ フライパンに焦げ作るの忘れるなって？ ママ、パパもそうやって？（切れる）なによもう・・・
別の携帯を取って。
（声色大きく変わって）あ、もしもし、ライライケン様？ ええ、四丁目のマンションの五階の、宇野でございます。オムライス二つ、そうね、一時間後に。ちょっと玉子焦がし気味で・・・いや、なんでもないの、よろしく、それからスープも、コンソメで二つ。お願いします。
鏡台の前に座って、化粧を始める。鏡台はなくてもよい。その場合、正面を向くのが望ましい。
携帯が次々と鳴り出す。一つずつ取って。
○
ママ、大丈夫だって、もういいから、ありがとうね。電話する。今ちょっと忙しいの。後で電話するから・・・大丈夫だって、大丈夫って言ってるじゃない。
○
あ、タケシ？ ごめん、今日さあ、急にうちのおかあさん来ることになっちゃって、なんか知らないんだけど、娘の顔見たいらしいよ。オムライス作るって、張り切ってんの。え、だめ、今日はだめ、タケシをお母さんに会わせるのは待って、だめ、来ちゃだめよ、来たりしたら、携帯の番号変えるかんね、いい？じゃあ。
○
コウジさんですか？ すみません、待たせちゃって、お湯沸かしてたもんだから、ええと、次の予定ですよね、あたし、日曜は仕事入っちゃてるんで、月曜しか休めないんです。え？ 休みを取る？ いえいえ、そんな会社休んでまで、そこまでしなくていいですよ、次の週なら、何とか時間取れそうですから、また、お電話させていただきます。失礼します・・・
○
ヒサト？ 今日のゴールすごかったじゃない・・・やればできんだから、頼むわよ、J１昇格はあなた次第！・・・応援してるって、今日だって、ずっとラジオ聞いてたんだから、せめて、来年はさ、テレビ放映されるようにがんばって・・・打ち上げ？ いいわよ、今日はサポーターと飲むんでしょ・・・あたしは行かない・・・またね。
○
アナタノオカケニナッタバンゴウハ、ゲンザイツカワレテオリマセン、プー、プー、プー・・・（バレバレかな？）
○
山本君・・・どうしたの？ 何泣いてんのよ。ねえ、山本君。山本君ったら・・・佳子と喧嘩でもしたの？ ほーら図星だ・・・どう、気がすんだ？ ハイ、サヨナラ！ （疲れるんだよねえ・・・）
○
やっだ、佳子？ たった今彼から電話あったわよ・・・喧嘩したんだって？ それにしてもさ、彼女と喧嘩して、彼女の友達に相談してくるような男はだめね。少しいじめてやったら？ 泣きそうだったわよ？ 何あんたまで泣いてんのよ。電話してあげなさいよ。あたしんとこ電話するってことは、あんたのこと嫌いになったわけじゃないんだから・・・ね、わかった？ （付き合ってらんない）
○
ピ・ピ・ピ・ピ、只今より、十二時五十五分、三十秒をお知らせします、ポ・ポ・ポ・パー（そんなわけねえだろ！）
○
・・・・・・・・・どちら様ですか？ もしもし。もしもーし・・・
電話切れる。
名前ぐらい言えばいいのに。
一つだけ鳴らない電話がある。ふと気づいて、手に取る。耳に当てて。
もしもし、もしもし、もしもし、もしもし、もしもし、もしもし・・・・・・
ピンポーン（ドアベルの音）
はーい・・・ライライケンさん？ どうも、おいくら？ 千と二十円、はい、ご苦労様・・・
一陣の風。簾が幽かに揺れて。
化粧の終わった、「女」がいる。
苦しゅうない。王妃の器に盛りつけよ。大王様の御成りである。
オムライスを一口食べて。
何これ。こんなもの殿下に食べさせる訳にいかないじゃないの。（采女を斬る）
あら、このお召し物はなあに？ 殿下は今宵もお泊りにならないとでも言うの？（采女を斬る）
草壁はどうしました？ 我が愛しき一人息子、玉のように愛らしく、やさしき心の持ち主、草壁はまだ戻らないの？（采女を斬る）
私は、あの、誇り高き天智天皇、中大兄の娘である。そして、勇壮にして知的なる唯一無二の天皇（スメラミコト）天武天皇こと、大海人様の第一の妻、ウノノサララである。後の世、人は私を、冷酷無情の女帝、持統天皇と呼ぶ。
煙草を吸う女。オムライスが食い散らかされて、残っている。一つの電話が鳴る。
ああ、今日だったっけ？ ごめーん。ちょっと家でゴタゴタあって、ほら、姉が急に入院しちゃって、その息子をね、あたしが預かるかもしれなくなった訳。ごめんね、電話すればよかった、姉はおとなしい人なんだけど、息子がこれがやんちゃでさ、あたしの部屋ぐちゃぐちゃにされそうなんで、今片付けてるって訳。子供ってホント元気よねえ。ちっとも疲れないんだもの、先が思いやられるわ、ごめんなさい、一人でしゃべっちゃって、その子？ うん、男の子。「ダイ」って言うの。大きい小さいの「大」って書いて、「ダイ」。うん、うん・・・そう良かったじゃない・・・今度あたしにも見せて、面白そう・・・あ、ごめん、家から電話なの・・・姉の件だわきっと、また、うん、今度はメールして。ほら、病院にいる時とか多くなりそうだし、電話かけられないじゃん。ね、おねがい。じゃあね、今日は本当にごめんなさい。
明らかに別人のように。
姉の入院。意識不明の重態。すぐ駆けつけなければ。妹として、すぐにでも姉の下へ。そして、あの人の元へ。私は姉の夫に恋してしまった悲しい女。今、この姉が、この世からいなくなればいいと、ほんの少しでも思ってしまう、この私をどうかお許し下さい。愛しているのです。ほんの少し、本当に少しでいいから、私にも気をかけてください。姉にかける気持ちの十分の一、いや、百分の一でいいのです。大君の面倒は私が見ます。あなたのためなら。私の子供同然にかわいがって育てます。あなたには黙っていたけれど、あたしのおなかの中には、子供がいるの。そう、この子はあなたの子供。あなたには黙っていたけれど、これからも言うつもりはないけれど。あなたを苦しめるから。あなたはどうか姉の傍にいてください。その姉が、ついには命を落とそうとも。あの晩のこと、一夜限りのこと。決して忘れません。あなたを独り占めできた、ほんのひと時、あの晩、あの日、（口調大きく変わって）
そして、あの日々、あの、吉野でのあなたとの日々を、私は決して忘れません。
吉野、冬
お姉さま！ お姉さまを、お姉さまを助けて。姉大田皇女（オオタノヒメミコ）は病に倒れた。そして二度とその目を開かなかった。姉は我が夫、大海人様の第一の妻。夫は泣き崩れた。姉のために。周りをはばからず、夫は泣いた。そのなきがらを抱いて。姉のために・・・姉のために・・・
六七一年 夫大海人は出家。
虎に翼をつけて放てり！ 近江の都の人々は口々にそう言った。大海人様は、その兄天智天皇に謀反の疑いをかけられる前に、出家し、吉野に逃れた。そのタイミングたるや、絶妙にして、行動は迅速。さすがは我が夫、大海人様の知恵と勇気は計り知れない。天智天皇、中大兄は私の父。そして夫大海人様は私の叔父。父中大兄は母の父を殺した残忍な男。そのせいで心やさしい母は狂い、そして死んだ。父は悲しみに暮れる私を見て言われた。
「そなたは私に似ている」と。
そんなことがあろうはずがない。私が父上に似ている？私が父上と同じ残忍さを受け継いでいると？そんなことはあり得ない。私は母に似て優しい心を持つ。そういえば、死んだ姉の大田も、心やさしき女性だった。私は大海人様ただ一人を心から愛するやさしい女。心やさしく、時には気丈に夫を支える妻。そして、大海人様の血を正当に受け継ぐ、心やさしき息子、草壁皇子の母、しかし、夫大海人様は言われた。
「そなたは戦友だ」と。
ああ、あまりにも非情なお言葉。私はあなたに女として愛されたいだけなのに・・・
「吉野へはお前と草壁だけを連れて行く。」
大海人様の命令で、大津を連れてくることは出来なかった。お姉さまの一粒種を、私は大津を、敵の都に置き去りにした。お姉さま、ごめんなさい。大津は必ず、いずれ私が引き取って、私が大切に育てます。優しい子供に育てます。草壁、しっかり歩きなさい！ あなたは勇気ある父をお持ちなのですから。決して、大津に負けてはなりません。あなたは大津より、一つ年上なのですから。しっかり、しっかり歩くのです。
吹雪の音
み吉野の耳我の嶺に時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける その雪の時なきがごと
その雨の 間なきがごと 隈もおらず 思ひつつぞ来し その山道を
私が泣いたのはこんな吉野の山奥に来るのがつらかったからじゃない。うれしかったから。あなたの妻になって、初めてあなたを独り占めできる幸福。あなたの戦友として、あなたの勝利の日々を祈りたい。けれど女としてはいつまでもここで二人きりで暮らしたい。都に置いてきた、あなたのたくさんの妻や子供たち。姉大田の子、大津。そう、姉は亡くなった。一歳上のやさしい姉上。あなたは彼にどういう愛され方をしていたの？その愛情を私にも少し分けてください。そして、尼子。かじ姫。新田部。大江。イオエ。氷上。あの、曽我の赤兄の娘オオヌ姫。そして、元の妻ヌカタ。あなたを取り巻く多くの女たち。あなたに人を愛する力が普通の人の十倍あっても、それを十人に分けるのではなく、全部私に欲しい。永遠に、この吉野での暮らしが続いて欲しい。でも、この人はいずれこの山を出て行く。それがこの人の人生。だからせめて、その日が来るまで、こうして私たちに与えられた幸運の安らぎを味わいたい。
急転 天智天皇崩御
ハハハハハハハハ、これは祟り？ 父上が死んだ、父上が死んだ・・・ハハハハハハハ、あの父上が、次々と親しい人たちを謀殺した父上が、中大兄が、天智天皇が、死んだ・・・・・・ハハハ、ハハハ、大友が跡を継ぐのね。あの若造が。我が夫、大海人様ではなく、あの大友が天皇（スメラミコト）になるのね。
お父様が・・・死んだ。「そなたに似ている」・・・私はお父様に似ている。お父様はたくさんの人を殺した。政治のために、近代国家を作るために。お父様、次の天皇は誰？ あなたの息子 大友の皇子なの？それは無理だわ。だって、大海人様が、この吉野で、こうやって力を蓄えておいでですもの。次の天皇は我が夫。大海人の皇子。フフフ・・・本当はそれを望んでいないくせに、このまま大友が天皇になって、吉野での生活がいつまでも続けばいいと思っているくせに・・・・・・うるさい、うるさい・・・大海人様は天皇になられるお方、私は
姉に代わる正式な妻として彼を支えるのよ・・・・・・ハハハハハハ、きれい事を言うんじゃない、お前は女だ、花も実もある女、政治に口を出すんじゃない、女として、夫に愛される、それがお前の幸せじゃないか、ここから出るな！ 都へ戻れば、たくさんの妻たち、お前より若い妻たちが、夫大海人に抱かれるのを待っているんだ。お前となんかもう床を共にするものか。若い妻たちだ。ハハハハハ・・・ほざくがいいさ、大海人様は天下をお取りになる。スメラミコトに御成りになる。そして私は、姉、大田の姫皇女（ヒメミコ）亡き後、押しも押されぬ、正式な妻、大后（オオキサキ）となる。その時が、その時がやってくる。
戦場の音、滝の音、馬の音、勝どきの声
始まった・・・戦が・・・大友を殺す戦が・・・父上の血を絶やす戦が・・・大海人様が、夫が天皇になるための血なまぐさい殺戮が・・・始まった。世に言う、壬申の乱の始まりであった。
殿！ 黒雲が！ 空を真っ二つに割って！ 天智天皇のお怒りだ！
待って、勝利を手にするには勝利を信じる気力が必要だわ。殿、これは私の行く手の改革を意味してるのよ。天が、我々を勝利の道に導いてくれるのよ。進みましょう。進みましょう、このまま、（雷鳴）ひるんではだめ、みんな、大海人様に続きなさい！（雷鳴）さあ、あの雲は勝利の証、何を恐れることがありましょう・・・さあ、進みなさい、進むのです。・・・痛い！ 痛い！ この・・・大切な時に・・・（進軍の音の中）
高市（タケチ）はまだ？ 高市の軍はまだなの。 大津は、大津の皇子はまさか裏切りはしないでしょうね。
敵は近江。我が父天智の都といえども、おそるるに足らず。天智の世を継ぐのは大海人様一人。何を恐れることがある、将軍、将軍、ひるむでない！ 進むのです、進むのです・・・私はあなたの戦友、ここで私がみなを鼓舞しなければ、・・・・・・痛い！ この痛みは・・・。あの日々、昨日までの吉野宮滝での夢のような独り占めの日々。もしかして、子供が宿ったのかも・・・もしそうだとしたら、、この痛みは？ いいえまだわからない。今戦いにすべてを賭けているこの人に余計な心配をかけたくはない。黙っていよう、あなた、心配要りません、馬に揺られて、少し疲れただけよ。予定を狂わせてはいけないから・・・痛い！ だめ、このままでは、軍の士気が下がる、みんなが私を心配している。これではいけない。あの人の人生が・・・そうだ、神の助け・・・アマテラスオオミカミの力を借りましょう。アマテラスオオミカミよ。勝利を私どもに与えてください。この痛みに耐えさせてください。この人を勝利に導いてください。妻として、戦友として・・・皆の者！ たった今、天照大神の声が・・・現し世で、この私の体を借りて告ぐ。大海人軍に加護を与えましょう！ と。
大津？ 大津の軍が到着！ 高市？ 高市の軍も到着。これで勝利は間違いないわ。大津、高市、いずれもあの人の子供。私の子草壁に比べて、なんて立派なのかしら・・・・・・痛い・・・あなた、痛い、もうだめ・・・子が、おなかの子が、流れる・・・あの人との証が、あの人にもらった命が消えていく・・・あの人の勝利に、あの人が天皇になるために、この、幸せだった吉野の日々に授かった、あなたと私の新しい命が、流れる、流れる、流れてしまう・・・・ああ、アマテラスオオミカミよ、この命を、この命を・・・・・・捧げます・・・
電話の音、三種類ぐらいの着メロが重なって、かまびすしい。
その一つを選ぶように取って
どう？ お姉さんの具合、そう、じゃあ、午後からあたし行ってみる。ママも疲れたでしょう。今夜はあたしがつくから、家で休んで。ママが体壊しちゃうじゃない。あたし一人で大丈夫だから。何かあったらすぐ電話するから。こういうときのために買ってあげたんじゃない。ちゃんと枕元において、充電しておいて。肝心な時に使えなかったら意味ないんだから。お父さんだって、ママがいなかったら、大変でしょう。そうねえ、一時の新幹線に乗るから、遅くとも四時には着くと思うわ。病室変わってないよね。え？ 個室に移った？ そういうのすぐ教えてよ、せっかく携帯電話買ってあげたんだから。で、何階なの？ 四階の四百三号室ね？ うんわかった。お兄さんは？ 様子、どう？ つきっきり？ 夜は帰ってる？ 病院から会社へ・・・そう・・・大変ね。大は？ ママが預かってんの？ いつから？ え？ そんな前から？ だからそういうことは早く教えてっていってるじゃない。関係なくない！ もう・・・わかったもういい！ 切るね、じゃ、後で。家の方も行ってみるから、たまにはお父さんの顔も見ないとね。
携帯を一台一台確認しながら、メールを打つ。
カズオ・・・今夜六時、父入院、キャンセル。
ユキト・・・明日の映画、行けなくなった。今度ビデオ見よう。ユキトの部屋で。
サトシさん・・・明日から二日間、実家で看病があるので、シフト交換お願い！ お土産何がいい？
これでよし・・・と・・・。
風が吹く。簾が揺れる。
誰？
そうか・・・
別の一台を取って、メール
兄さん・・・今日帰ります。姉、よろしくお願いします。お話したいことがあります。時間とって下さい。会いたい・・・さら。
再び風。簾が揺れる。次第に様相を変えて。
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
風をだに恋ふるは羨（とも）し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
風に想いをめぐらせるなんてうらやましい 風の訪れさえもうないわたしと比べて、何を嘆くことがありましょう・・・
携帯が次々とメールの着信を告げる。取り上げてはそれを投げつける。
一つ残った携帯だけが鳴らない。
どうして返事を下さらないの？あたしに会うのがそんなにいや？ 一言、一言でいいから返事を下さい。あたしが邪魔・・・・・・そうよね・・・あたしは姉が死ねばいいと思っている酷い女、そんな女をあなたが気にかける訳はないのよね。優しくなりたい、優しくなりたい。姉の回復を心から願える・・・そんな女に・・・いや、心から思っているわ。いつもいつも一緒だった、一つ違いのたった一人の姉だもの・・・大切でないはずがないじゃないの。でも、貴方への想いがその心を歪ませる・・・・・・鬼・・・・・・これは鬼だわ。私の中に鬼が棲んだ。もうどうしようもない。行かなくちゃ、あの人に会いに。姉のため？ ママのため？、違う、いや、姉のため？ ママのため？ 父のため？ ちがうちがう・・・所詮あたしは自分のことしか考えられない冷たい女。会いたい・・・あの人に会いたい・・・でもあの人には姉がいる、賢い子供もいる・・・子供・・・そう、あの人の子供、ここ（お腹を指して）にいるのはあの人の子供・・・話す？ あの人を困らせる・・・これ以上嫌な女になろうというの？ 話したい・・・あの人はどんな顔をするかしら・・・喜んでくれるかしら・・・そんなわけないわね・・・きっと迷惑に決まっている・・・鬼、鬼、鬼、鬼・・・鬼が巣くえば楽になる。私は鬼。この安らぎは何？ この静寂は・・・この落ち着きは・・・なに？ 何も怖くない、そうだ、鬼になろう・・・もう引き下がれない・・・
（次第に声色変わって）
鬼になろう・・・鬼になろう・・・貴方のために、私は鬼になる。そして貴方が目指した夢のために・・・鬼になろう・・・鬼になろう・・・・・・・・・
大きく風が吹いて、馬のいななき、ほら貝、奇声が聞こえて。
お父様、許してください。あなたの子、大友は自ら縊れて死にました。今ここに、大友の首があるのよ。あなたの息子の首が、大海人様の元にあるの。手厚く葬ります。そして、あなたの人生を、今こそ葬る時・・・私はお父様を憎んでいる。母が狂い死んだのはあなたのせい。弟タケルも、短い命を終えた。すべてあなたのせい。有間の皇子も、おじい様も、みんな、私の愛する人をあなたは次々と死に追いやった。そして、危なく、我が夫もあなたに殺されるところだった。これは復讐？ 大友の首はあなたへの復讐？ 私はあなたが許せない・・・・・・「そなたは私に似ている」あなたはそう言った。そうかもしれない。だって、大友の首を目の前にして、私は何も感じないもの。忘れていたわ、私は自分の心に鬼を棲まわせた。でもそれは、お父様の心に巣食った。鬼とは全く違うものよ。私の中の鬼は、私が女ゆえの鬼。あの人を、あなたの弟、大海人様を私の元にとどめておきたいがための鬼。あの人は私を「戦友」としてしか見てくださらない。だとすれば、私が本当の女になってしまえば、あの人は私を必要としなくなる。ああ、見える・・・この国の行く末が、手に取るようにわかるの・・・・・・あの人が望むことなら、なんでも叶えてあげられる。律令制度も国の歴史の編纂も、新しい都の建設も、みんな思いのままよ。私はお父様とは違う。私は大海人様のために魂を売っただけ。お父様に似ているだなんて、二度と言わないで。
さびしい・・・・・・吉野での日々はもう二度と戻ってこない。あの時流れた子は、神に捧げられた・・・
「ええ、人材の登用は政治に不可欠です。ただ、近江系の、天智天皇の息がかかった、皇子たちを要職につけるべきではありません。あくまで、あなたの子、高市を中心に政治を行い、姉上の子大津と、そして私の子、草壁のいずれかを後継者として示すべきです」
ああ、あなた・・・行ってしまうの・・・今夜は、オオヌヒメのところね・・・フフフ、わかるわ、今夜あなたがどういう女を必要としているか、私には手に取るようにわかるの。あなたに安らぎを与えてくれていたお姉さま亡き後、あなたが疲れを癒す女はオオヌしかいないわ。でも、覚えておいて。オオヌヒメは蘇我の赤兄（アカエ）の娘。赤兄は私の初恋の人有間の皇子を謀略で死に追いやった男。そんな男の娘の閨に、あなたが毎夜毎夜通うなんて。私には耐えられない・・・耐えなければ、あなたがオオヌを必要としているなら、快く見守ってあげなければ・・・明日は、政治の話が終わった後は、カジヒメ？ イオエ？ もう何日も、私の閨で夜を過ごすことはないのね。政治の話はもうたくさん！ 男は、どうしてひとりの女じゃだめなの？ 私だけを、私一人だけを愛してはくれないの？
冷静になって、化粧を直しながら。
愛する人の帰りを待ち、衣服を整え、健康を祈り、子供を育て、「美しい」と思われたくて、装いを凝らす。それが普通の女の幸せ。でも私は夫から「戦友」と呼ばれる女。普通の女として愛されているわけじゃない。だから私は夫の食卓を考えるより、政治の勉強に頭を使おう。食事もそして、女としての夜も、他に任せておけばいい。女らしい装い方に頭を悩ませるより、海の向こうの、わが国を狙う唐や新羅の大きな国の戦略に、思いを馳せよう。私は唯一無二の戦友になる。そうでなければ、私があの人の元で生きる道はない。いつか遠い日、「お前を妻にして良かった」と、あの人に言わせて見せよう・・・
姉さん！ 姉さん！ 姉さん！ 返事して！ あたしよ。サラよ。姉さん。あなたの妹、サラよ。まさかこのまま二度と目を開けないというんじゃないでしょうねえ。あたしを置いて。ママたちを置いて。ダイを置いて。そして何より、あの人を一人にして。こんな罪深いことはないわよね・・・・・・痛い・・・何？ この痛み？ 姉さん、しっかりして、目を覚まして、ダイ？ いるわよ、ここに、そして、あの人も・・・あなたの夫も・・・痛い！ まさか、つわり？ こんな時に・・・・・・まさか・・・姉が、あたしの子を連れて行く？ そんな訳はない、この子はあの人とあたしの子、姉には関係ない、ああ、罪深いのは姉じゃない、このあたし。姉の愛する人との間に出来た子を孕みながら、姉の死を見送るあたし。たった一人の姉、その姉の命を奪っていくのはあたし、姉の死を心から願った、あたし。いや、だめ、死んではだめ、残された大（ダイ）はどうするの？ あの人は？ あの人が悲しむ、そう、姉が死ねば、あの人は悲しむ、泣き崩れる、あたしとの一夜の時間なんか、あの人には存在しなくなる。そんなもの、思い出しもせず、姉の死に大粒の涙を流すのね。あたしだって、涙を流す。たった一人の姉だもの・・・でも、その涙は、血塗られた涙、罪深いのはこのあたし、でも、この思いを今はどうしようも出来ない。いつの間にかダイの首を絞めている。ハッと気づく、ダイが泣いている。ごめんね、あなたには何の罪もないというのに、あたしは幼いあなたから、母を、そして、父までも奪おうとしている。姉さん、死んじゃだめ、姉さんが死んだら、それはあたしのせい？ 死ね、死ね、死ね、死ね！ だめ、死んじゃだめ、あたしは二度と救われない、死んじゃだめ、姉さん、死んじゃだめ、死ね、死ね、死ね、死ね、だめ、だめ、だめ、助けて、助けて、あたしを助けて！
そういうことなのね。あなたはあたしに罪を犯させようとして、そうやって、逝ってしまうのね。すべてを置き去りにして・・・ハハハ、ハハハハハハハハハハハ、殺して欲しかった、この心の闇に巣食うどす黒い鬼を、あなたの純粋な白き魂で、消し去って欲しかった。もう止められない、誰にも止められない。あの人が来る。愛する妻の死を悲しんで、あの人がやってくる。「義兄さん」と言って、胸に飛び込もうか・・・誰も疑ったりしない、姉を失った哀れな妹が、悲しみのあまり、他人である姉の夫に抱きついたからって、誰も疑いの目など、向けはしない。抱きついてやる。この胸の苦しみを、この遣る瀬無い想いをぶつけられるのは、もうあの人しかいない。それを望んだのは、あたし。私の望んだとおりになったんじゃない・・・フフフ、もう、決して手放しはしない・・・ハハハ、ハハハハハ（狂ったように）
一歳のときから、ずっと一緒でございました。仲の良い姉妹だと近所でも評判でございました。同じ学校に仲良く通って、二人とも無事に成人を迎え、双子のように仲の良い姉妹でございました。あの人が現れるまでは。姉さんの死んでしまった今、あたしはどうやって独りで生きていけばいいのでしょう。あの人の子がもうすぐ生まれるのです。ごめんなさい。姉さん。あたしはあなたの夫の子を生むのです。生まれたら、生まれてしまったら、あたしはもう、姉さん、あなたの子供を愛することは出来ないでしょう。既にその手は、その首にかかっているのです。あたしをお許し下さい。あたしは、独り、生まれてくる子を育てます。ダイはママに預けます。あたしの元には置いて置けないから。とんでもないことをしてしまいそうだから。そして、あたしはあの人とは、二度と会いません。お誓いいたします。二度と会わない・・・あなたにできるの？ こんなに好きなのに、こんなに会いたいのに、こんなに愛してるのに。望みどおりになったのに、望みが叶わない。それは望んではいけないことを望んでしまったからなの？ 神様・・・神様・・・教えてください。
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る
紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る
紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも
天武二年 六七三年 大海人皇子 即位。後に言う、天武天皇である。私はその正式な妻として、大后となり、強い権力を持つようになりました。ウノノサララ二十七歳。この時から、私と大海人様の、夫婦としての生活は一切なくなりました。いよいよ私は「戦友」として、夫とは政治の同朋となったのでございます。
ホホホホホホホ、夫が愛した女たちが、私の前にひれ伏す。「大后さま、大后さま」と・・・。私はこの日を待っていたのかもしれない。蘇我赤兄の娘、オオヌヒメよ、ひれ伏すが良い。私はオオキサキである。私が憎むべき血を受け継いだこの女は私の知らない大海人様を知っている。毎夜毎夜何を話すの？夫は、大海人様は、スメラミコトは、お前をどんな風に抱くの？ イオエヒメ！ ひれ伏すが良い。私はオオキサキである。あなたはまだまだ若い、大海人様があなたの閨へ行くのは仕方のないことね、夫は、大海人様はまだまだお若くていらっしゃるから。そう・・・スメラミコトになられた今、大海人様はさらに新しい妻を迎えるかもしれない。ああ、毎夜毎夜、忍んで行かれる夫を見送り、私は独り、寝床で泣きました。私が泣いて、泣いて泣いて、そしてそれに従って、律令が発布され、法律が出来上がり、天皇中心の中央集権国家が出来上がっていったのでございます。そして私は泣きました。私が泣けば、国家の礎が次第に形を成して行くがごとくでございました。スメラミコトは大臣を置きません。世に言う、皇親（コウシン）政治と申すものでございます。側近は皇族だけで固められました。その分、卑しい身分の母から生まれた長男の高市（タケチ）と私の負担が大きくなりました。我が子草壁と姉の子大津はまだ幼かったのでございます。私は泣きました。そして八色の姓（ヤクサノカバネ）が定められ、、冠位十二階の制が成立しました。そして私は泣きました。律令国家がその大きな姿を見せ始めました。私は泣きました。毎夜毎夜泣きました。そしてその涙は、ついに涸れ果てました。私は泣かない女になりました。
我が子クサカベを皇太子、ヒツギノミコに。私は宣言したのです。これには多くの反対があったのでございます。姉の子大津皇子は勇敢で、武芸に優れ、和歌の道にも非凡な才能を見せていたからでございます。私から申し上げます。大津こそ、皇太子に相応しい。私の仕事はたった一つでございましょう。大津ではなく、草壁を皇太子にすることです。当然ではないでしょうか、母として。母として生きるしかない私に残された道は、大津ではなく、草壁を天皇にすることではないでしょうか。姉は夫に慈しまれ、女として愛され、この世に優れた皇子大津を残し、夫の期待に応えました。それに比べてこの私は、女として愛されることもなく、産んだ子供はひ弱で判断力もない役立たず、大后とは名ばかりで、生き恥を晒しているようなものでございます。優しい姉は死に、気丈な私は生きる。姉は惜しまれ、私は疎ましがられる。そうに決まっているのです。私の涙は涸れ果てました。こうなった今、私に出来ることは、一つしかなかったのです。我が子草壁をなんとしてでも天皇に。（くずおれて）ハハハハハ、こんなバカ息子が天皇？ 笑わせんじゃねえよ、父上と夫が作りあげてきた日本がだめになる、私とあの人が作り上げた理想の国を、息子の草壁が滅ぼす・・・ハハハ、いい気味だわ、母を死に追いやった父天智、私を女として見ようともしない夫大海人、二人が作った国を、私の息子が、あなたの孫が、あなたの子供が、滅ぼすのよ。ハハハハハハハ、これは復讐？ 私の心に棲みついたあの野郎の復讐？・・・・・・クククククク・・・涙も出ない、あの、吉野で誓い合った、国家設立と二人の愛の絆、あの時のあふれ出る豊かな美しい涙は、一体どこへ行ってしまったの・・・醜い女・・・それがわかっていても、それでも、心を癒す涙は一粒も出ない・・・悲しみも喜びも、そして愛も、私は全てを失った。残されたこの救いようのない心の闇を、この疎ましき思いの黒い塊を、今はどうすることも出来ない。
雷の音、次第に激しく。
大海人様、大海人様！ あなた、あなた！
雷鳴激しくなったあと、やや静まって。かすかに雨の音。（宮滝の音か）
いよいよその時がやってきたのでございます。
音止んで。
北山にたなびく雲の青雲の 星離（さか）り行き 月を離（さか）りて
青雲こと、大海人様、天武天皇 崩御。
一粒でよかったのに。あなたのために流す涙を取っておけばよかった。あなた、さぞかし無念でしたでしょう。この人は世の中を変える力の持ち主。だからこそ私は生涯をかけて愛しぬいた。志半ばで斃れたあなたの夢をこの私が実現させて見せましょう。あなたの為に、あれほど愛したあなたの為に流すことの出来ない涙を、この国のため、我が子草壁のために流しましょう。
北山にたなびく雲の青雲の 星離り行き 月を離りて
私は自分でも驚くほど心静かに夫の死を迎えたのでございます。
遠雷。天武が遠くへ去っていくかのように。電話の呼び出し音に変わる。
しかしなかなか相手が出ない。
電話の呼び出し音。相手が出る。
義兄さん？ ちがうの？ おばちゃん？ ダイ君なの？ ダイ君。そう、おばちゃんよ。義兄さん・・・いやおとうさんいないの？ 出掛けてる？ でも、この携帯電話お父さんのよね？ え、違う携帯を持ってる？ そうなの・・・じゃ、また電話するからって、お父さんの電話番号わかる？ そう・・・うん、お休みなさい。
（切る）そうなの・・・そういうことなの・・・。どういうこと？ そういうこと。この子は、この子は・・・痛む・・・お腹が・・・痛む・・・
（すばやく切り替わって）
謀反？ 大津が謀反？ 高市、本当なの？ 大津・・・あの優しかったお姉さまの子、大津の皇子・・・お父様と夫の血を受け継ぐ、最も天皇に相応しい男、大津が謀反・・・・・・フフフフフフ、来た、この時が来た・・・いいえ、来てはいけない瞬間が・・・望んでいた、あたしは心のどこかで・・・これを、このときを・・・望んでいた・・・・・ちがう、ちがう・・・大津はあの人が最もかわいがった皇子、その子を貶めるなんて・・・私じゃない、それは私じゃない・・・高市、大津の謀反は、大津の謀反は・・・本当のことなの？ クククククククク・・・・・・あなた、お姉さま、あなた方の子供、大津が、謀反を起こしました。
（電話の音）（すばやく切り替わって）
あ、義兄さん、あれ、携帯変えたの？ 番号違うから、登録しとくね。え、もう解約する？ 新しい携帯？ あ、そう・・・どうして会ってくれないの？ 大（ダイ）君のこれからのこともあるし・・・あたし、引きとってもいいと思ってるの・・・他にもいろいろ相談したいことあって、うん・・・大事な話。え？ アメリカ？ 転勤なの？ ああ、出張。何日ぐらい？ 一ヶ月？ 大君は？ 連れてくの？ そう・・・そうなの・・・あたし・・・あのね、もし、もしもし？ もしもし・・・
（すばやく切り替わって）
あなた、私は大津を処刑せねばなりません。大津は家来ばかりでなく、地元の豪族や名も知れぬ山の人々を仲間にして、国家転覆を企みました。あなたの若い頃にそっくりの、天皇にもっとも相応しい才気あふれる大津を、お姉さまの子を、私は殺さねばなりません。大津を愛する多くの女たちが、あまたの涙を流すでしょう。大津、あなたはどうして、どうしてこんな謀反を企てたの？ 皇太子（ヒツギノミコ）は、後継者は我が子草壁と決まっているのに。あなたはそんなに私が、草壁が、憎いの？ 大津、大津・・・あの人の大切な子供・・・
誰かある！ 国家に対する謀反の罪により、大津を極刑に処します。
（すばやく切り替わって）
義兄さん、行かないで。あたしを独りにしないで。生まれるのよ、あなたの子が、。あなたの子があたしのお腹にいるのよ。行かないで。だめなら、あたしを連れて行って。せめて、大君をあたしに育てさせて。側に、側に置いてください・・・
（音）只今電話に出ることが出来ません。ピーッという発信音の後にお名前とお電話番号、ご用件を三十秒以内でお話し下さい。ピーッ
あなたはまだ日本においでなはず。この電話はこの前あなたが教えてくだ・・・・・・さ・・・・・・う…（くずおれる）（電話切る）う、苦しい、まだ、まだ臨月じゃない・・・何、この痛み？ この苛立ち、この怒り、この憎しみ、あの人はなぜ電話に出ないの？ （息荒く）苦しい、痛い、痛い・・・こんなもの、殺してやる・・・あたしを苦しめるだけじゃない・・・殺してやる・・・お前なんか殺してやる・・・お前なんか、お前なんか、（お腹を叩こうとして）・・・・・・ごめんなさい、私の愛しい子、あなただけが、私の生きがい、私はあなたを命がけで助けてやらなければいけないのに、痛い・・・痛い・・・がんばって、がんばって・・・・・・
（鐘の音）（切り替わって）
ももづたふ磐余（いはれ）の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 今日のみ見てや 雲隠りなむ
大津、自害、二十四歳。妻山辺姫、跡追い自害 十六歳。
産声
（切り替わって）義兄さん、男の子よ、男の子・・・・・・元気な男・・・え？ ねえ、ちょっと、息をして、息をして、お願い、ねえ、どうしたの？ ねえ、まだ、名前も決まっていないのに、ねえ、お願い、助けて、あたしの赤ちゃんを助けて、あの人との子を、この子を助けて、おねがい、助けて！
（切り替わって）
世の中に報いというものが本当にあるのならば、こういうことを言うのでしょう。我が子草壁を天皇にせんが為に、大津を謀略で自害に追い込み、あなたを裏切り、お姉さまを裏切り、国家のため、わが子の為、心を鬼にした私に課せられた苦しみ。もしもこの世に報いというものがあるのならば、こういうことを言うのでしょう。私は愛するものを失った。最後の一つを失った。天皇になるはずだった、たった一人のかわいい息子、草壁を失った。本当の兄弟のように仲の良かった大津の処刑が原因ならば、私自身が草壁の死をもたらしたものに違いない。私は自ら我が子の命を奪った。原因不明の病気とはいえ、殺したのはこの私に違いない。私には何一つなくなった。私が愛を傾けるものは、一つもなくなった。ハハハハハハハ、もともと愛など失くしていたくせに。いまさら失うものなどあるものか。知っているぞ、ウノノサララ、お前は人を愛そうとしながら、結局一番愛していたのは自分自身だ。自分の淋しさをごまかすために心に棲まわせたお前の鬼など、虚像に過ぎぬ。さも、何か悪い奴らがお前の心を蝕んだかのようにものを言うのはやめるがいい。お前だ、お前が全てを失ったのは、おまえ自身のせいだ。ハハハハハハハ、苦しめ、苦しめ、お前に残された道はただ一つ、完膚なきまでに己自身を愛することだ。
（切り替わって）
電話を手にとって・・・・・・呼び出し音がかすかに聞こえたまま。
あなたの子は、生まれて、そして、死にました。男の子でした。義兄さんにお願いが、一つだけあります。この哀れな子に、名前をつけてあげてください。
（切り替わって）
父上！ 天智天皇！ そなたは言われた。「おまえは私に似ている」と。フフフ、その通りだったわ。私はお父様にそっくり、冷酷にして残忍なところが、お父様にそっくり。（天智を斬る）
あなた、大海人様、天武天皇様、あなたはおっしゃった。「お前は戦友だ」と。その通り、私はあなたと共に戦って、吉野から都へ、そしてこの律令国家を作り上げたのね。私はあなたの戦友である前に、一人の女でいたかったのに。（天武を斬る）
お姉さま、お体の調子はいかが？ お姉さまのお身体がもっと御丈夫であれば、こんなにたくさんの血が流れなくて済んだのに。それよりなにより、あれほどの才気あふれる皇子、大津を産んでしまったことが、お姉さま、あなたの最大の罪・・・・・・ああ、責めてはいけない、お姉さまを責めてはいけないのに…お姉さま、行かないで・・・行かないで・・・・・
大津、かわいい子。我が子草壁に、弓の手ほどきをして頂戴。和歌の詠み方を教えて頂戴。あの子はあなたより年上なのに、ちっとも勇気がなくて、力がなくて・・・大津、あなたが私の産んだ子だったら、こんなことにならずに済んだのかもね。どうして、大津・・・どうしてなの・・・あなたほどの子が藤原不比等の謀略なんかに引っかかって、謀反を企んだりしたの？ あなたには草壁を支えて欲しかった、いつか必ず、あなたの力を必要とするときが来たかもしれないのに。（泣きながら大津を斬る）
草壁！しっかりしなさい。あなたは皇太子（ヒツギノミコ）なのですよ。いずれ天皇に即位して、この国を引っ張っていくのはあなたの大切な役目。それなのに、いつになったらしっかりするんです・・・あなたの父は・・・あなたのおじい様は・・・大津は・・・高市は・・・草壁？ どこへ、どこへ行くの？ 草壁、お母様を置いて行かないで、草壁、草壁・・・・・・・！！！
高市（タケチ）、頼りに出来るのはあなただけになりました。あなたの母は皇族ではない。だから、天皇になることが出来ない。こんなに立派な若者なのに。こんなに才気あふれる皇子なのに。高市、私を助けて。私の国造りを補佐して。お願い、いずれ私は、草壁の子、軽の皇子を天皇にするつもり。それまで、軽が成人するまで、政治はあなたに任せるから・・・高市、高市？ 高市？ どうして、どうしてみんな私より先に逝ってしまうの？高市？ どうして？ なぜ、なぜ私だけがこうやって生き恥を晒すの？ 鬼を棲まわせたから？ 心に醜い鬼がいるから？ ならば、私の顔や姿は、もはや、鬼に最も似つかわしいものになっているはずだわね。
そこには「鬼」がいる。
誰かある！
王妃の、いや、大王（オオキミ）の皿に盛りつけよ。
我こそはウノノサララ、持統天皇である。
携帯で電話をかける女。次々と電話を替えては掛け、投げ捨てる。
もしもし、もしもし、義兄さん、ママ、ダイ、姉さん、もしもし、もしもし、武田さん、オムライスはいかが、タケシ、うちに来て、母さん、来れなくなったから、コウジさん、日曜でいいから、会ってください、ヒサト、ゴール決まった？ 佳子！ 山本君！ 早く仲直りしなきゃ、カズオ！ ユキト・・・映画はいいの？ サトシさん、お土産、買ってきたから・・・ねえ、誰か、誰かいないの、もしもし、もしもし、もしもし・・・・・・・・・
携帯の中に埋もれる、さら
やがて、けたたましく鳴り響く無数の電話の着信音、呼び出し音。
無数の携帯がピカピカ光る。
光の中に全てが溶けていく。
女、さらはもはや一台の携帯電話と化し、男の持つ携帯の一つでしかなくなっている。
（声）もしもし、もしもし・・・出て、誰か、出て・・・
しかし、それが取り上げられることはない。
それでも、その携帯は、最後まで、一つだけ、鳴り続ける。
ゆっくりと溶暗
一切の音が消え、一つの携帯の光だけが闇に残る。
（幕）
＊本編の、古代史の部分はある程度史実に基づいてはいますが、フィクションです。